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グッド・サマリタン・チャーチ 洲本チャペル

  日本への宣教師ー私たちの物
ジム&ダーラ・スナイプ牧師

私たちの物語は私達の結婚式から始まります。私達は日本への宣教師となるという私たちに対する神のご計画が、いかにして実現してきたかをお伝えしたいと思います。文章の最後の写真が物語の多くを物語っています。1967年の秋、私と妻はアイダホ大学で出会いました。私は1968年の春に卒業し、私達は同年824日にアイダホ州モスコーにある長老派の教会で結婚式を挙げました。挙式後、私たちは私達の車とレンタルトレーラーに荷物を詰め込み、カナダヘの新婚旅行に出発しました。私たちはカナダ・アルバータ州エドモントンに住み、私はアルバータ大学の大学院に進学しました。

19697月、私たちは400エーカー(約50万坪)の広さの農場を購入しました。そこでキジを飼育し、キジ撃ちのハンティング・クラブを経営する計画でした。1970年の秋に私はアルバータ大学から修士号を受け、 197012月には私達長男のシェーンが生まれました。その後、19719月に私達は私達の農場の家に引っ越しました。ようやく19729月に私達はハンティング・クラブをスタートしました。私たちの農場の家は、 1929年に建てられた小さな2部屋のログハウスでした。私たちの2人目の子供は1973年の秋に生まれる予定で、もっと大きな家が必要でした。しかし1973年の春、父の母の援助で私達はトレーラーハウスを購入することができました。1975年の春、私の母方の祖父の遺産を元に、私たちは農場に新しい家を建て始めました。建設に 2年かかりましたが、大工仕事のほとんどを私がしました。1975年から1977年にかけての冬に、私の妻がクリスチャンになりました。その時から、彼女は私もクリスチャンになるように祈り始めました。

19794月、私たちはアルバータ州セントポールにあるセントポール孵化場を購入しました。孵化場には、 13,500羽の七面鳥と多くの鶏、さらにはアヒルがいる160エーカーの農場が含まれていました。孵化場を買うのは良い考えではありませんでした。私たちがそれを運営した最初の年、私たちは多くのお金を失い、深刻な財政難に陥っていました。政府の食肉検査官は、私たちの財政状況を改善するために家禽加工工場を始めるべきだと私たちに言いました。私たちの銀行は私たちのローン申請を却下しましたが、最終的には私たちにお金を貸すことに同意しました。家禽加工工場は19818月にオープンしました。私たちはいくつかの企業に鶏肉を販売し始めましたが、もっと多くの顧客が必要でした。鶏肉加工工場を始めてから最初の6か月は非常に困難で、私たちの財政状況は悪化しました!銀行のマネージャーと会った後、私たちはビジネスのために非常に真剣に祈りました。驚くべきことに、私たちの状況は急速に改善し、スーパーマーケット、ケンタッキーフライドチキン店など、より多くの顧客を獲得しました。

私は19814月にクリスチャンになり、次の2か月で2人の息子もクリスチャンになりました。私たちの生活は大きく変わり始めました。私たちは、神が私たちの人生に特別な計画を持っていると信じていました。私はカナダのクリスチャン実業家組織であるFull Gospel Businessmen's Fellowship International (FGBMF|)メンバーになり、198311月にアルバータ州セントポールに地方支部を設立しました。1985年に、カナダと米国のFGBMFIは、日本でFGBMFIを設立するためのアウトリーチを計画し始めました。私たちは198511月の最初のアウトリーチには参加しませんでしたが、19864月の2回目のアウトリーチには参加しました。束京に到着して最初の朝早く、私達はホテルの部屋の窓から外を見ると、富士山が見えました。神が日本の人々がクリスチャンになるという重荷を私たちに与えてくださったので、私たちは2人とも泣き始めました。私たちは東京エリアで1週間過ごし、その後新幹線で大阪エリアに1週間滞在しました。カナダヘの帰国便に乗るため伊丹空港から成田空港へ飛ぶ前に、日曜日の朝にグッド・サマリタン・チャーチを訪問しました。空港では、青木牧師が再び彼らの教会を訪れるように勧めてくれました。

19871月、私たちは2度目の日本旅行に行きました。私たちはアウトリーチチームの1週閻前に日本に到着し、グッド・サマリタン・チャーチと他の2つの教会を訪れることができました。私たちは、日本にいた最後の週に東京のアウトリーチチームに参加しました。私達は東京の京王プラザホテルの部屋で賛美歌を歌い、祈ってい るうちに、部屋は静かになりました。突然、一人の女性が「私たちの何人かは、日本へのフルタイムのキリスト教宣教師になります」と言いました。彼女がその言葉を口にした瞬間、私は妻と私がキリスト教の宣教師になるために日本に移住することを知ったのです。私は、神様のご計画が私にとって何を意昧するのかを実感し、私は泣いていました。家族や友人、会社などと別れることになることはわかっていました。私たちはカナダに 20年近く住んでいて、とても快適な生活を送っていました。私たちは、自分たちが建てた美しい家に、1.6平方キロメートルの農地に住んでいました。妻は部屋の反対側にいて、彼女も泣いていました。私たちは立ち上がって抱き合いました。アウトリーチの責任者であったジャック・デロング氏がやって来て、その計画が本当に神からのものかどうか確証を求めなければならないと言いました。その直後、トロントから来た女性が、前日に教会で私たちと一緒にいたと言いました。その時、神様は彼女に、私たちは日本へのキリスト教の宣教師になるとぉっしゃいました。部屋が静かになった前に、私の妻はすでにイエスのビジョンを見ていました。彼は手で日本に来て合図を送っていました。そして彼女は泣き始めました。私たちはカナダに戻り、さっそく二人の息子たちに、私たちが宣教師として日本に行くことになると伝えました。長男のシェーンはそれを聞いて驚きはなかったそうですが、自分は行かないと言いました。次男のジェイも日本には行きたくないようでした。

1989731日、私たちは次男のジェイを連れて日本に出発し、キリスト教の宣教師になりました。グッド・サマリタン・チャーチでは、教会員の方のマンションに私たちがーか月住めるように準備してくれていました。私達は日本に着いたとき、20人以上のグッド・サマリタン・チャーチの信者に迎えられ、とても驚きました。私 達は日本に向けて出発した時点では、これからどの教会と共に働くことになるのかは決まっていませんでした が、19899月に、グッド・サマリタン・チャーチから宣教師となってほしいと正式に要請されました。もちろん、私たちは喜んで彼らの宣教師になりました。長男のシェーンは、日本で英語を教えるために、カナダの大学を1年間休学することを決めました。彼は10月に到着しました。次男のジェイは、高校の残りの2年を終えるために、9月から神戸にあるカナディアン・アカデミーに入学しました。日本の小さなマンションで、家族が再び一つになりました。

私達は宣教師として来日して10年目に、神は淡路島でグッド・サマリタン・チャーチのチャペルを始めるように導き始められました。これはどのようにして実現したのでしょうか?19991月の最初の数日間、妻は新年に向けて神様の導きを祈りました。彼女は淡路島のビジョンを見るようになり、私たちが島のために祈りに行くべきだと感動しました。211日、私たちは牧師の青木靖彦さんと由美子さん、そして他の4人と一緒に島のために祈りに行きました。私達は島に行くのは初めてでした。そして、淡路島で私たちにとって神様の計画は何だろうと考えました。その答えは、翌朝の教会の礼拝中に出てきました。妻は、大きな波が島に押し寄せてくる光景を見ました。人々は「助けに来てください」と叫んでいました。妻がビジョンの話をしたとき、彼女は泣いていました。彼女がビジョンについて話してくれた後、私も泣いていました。その幻は、新約聖書の使徒パウロがマケドニアに行くという幻と非常によく似ていました。「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニア人が彼の前に立って、『マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください。』と懇願するのであった。」(使徒 16:9)私達の牧師達にその幻について話し合いました。そして、私達ができるだけ早く淡路島に移住すべきだということで一致しました。約6週間後に淡路島の洲本市に引っ越し、199944日、借家において州本チャペルをスタートしました。  2006年の秋になり、私たちは神が洲本チャペルに対する新しいご計画を持っておられることを感じ始めました。2006121日のこと、神が私たちに幼稚園を始めるように望んでおられるようだと妻が言いました。私も幼稚園を始めようと思っていました! 数日後、妻は夢を見ました。彼女は急勾配の土手の上に立っていて、遠くに山が見える美しい光景を見たというのです。彼女はその場所こそ神が新しい教会を建て、幼稚園を始めるように願われているところだと信じました。1月に私達は12月初旬に彼女が夢で見た場所を探し始めたのですが、見つけることができませんでした!

21日の午後の早い時間に、一人の私達の教会のメンバーが私たちを訪問してくれました。彼女は建築会社で新しく仕事をし始めたばかりでした。彼女は私たちが土地を探していることを知り、どんな条件の土地が良いのかを聞いてくれました。その後、会社に戻った彼女から私達に電話があり、「私はあなたたちが探している土地を見つけたかもしれません」と言って、すぐにその場所の地図を持ってきてくれました。翌朝、私たちはさっそくその場所に行ってみました。その日は私の誕生日でした。その土地は近くの家々の陰になるところが多く、私たちの計画には適さないように思えました。幼稚園は特に日当たりが大切だからです。しかし、すぐ北の土地は良さそうに見えました。北側に勾配のきつい土手があり、そこが土地の境界線でした。妻はその土手の上に駆け上ると、興奮した様子で「これが私が夢で見た土地です!」私にとってはワクワクする誕生日でした。

翌日、彼女の会社が建てた家で私達の教会員に会いました。彼女は私たちを見て驚いていましたが、あの急な勾配の土手の上の土地に興昧があるのですかと聞いてくれました。私達はそう聞かれたことにも驚きましたが、すぐに「はい」と答えました。彼女は「祈りなさい!」と言いました。そこは、州本チャペルと幼稚園にとって完璧な場所でした。数週間後、所有者は私たちに土地を売ることに同意しました。土地は農地から転用されたもので、2007831日に購入することができました。土地の鍬入れ式が1013日に持たれ、教会の建築は1119日に始まり、2008325日に完成しました。私たちは、幼稚園ではなく、3歳から5歳の子供たちのためのインターナショナル・プレスクールを始め、妻が先生になることが神の計画だと信じていました。20094月、私たちは「神愛インターナショナル・プレスクール」を開園しました。そして私達は20203月に閉園するまで、 11年間スクールを運営したのです。

 

私たちは現在、キリスト教宣教師として日本での35年目を迎えています。私たちの生涯の働きに対する神様のご計画は、イエス・キリストの福音を日本の人々に伝えることです。福音とは何ですか?
福音という言葉は「良い知らせ」を意味し、聖書のある一節で宣言されています。

「神は、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、彼を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。(ヨハネ3:16)

 

イエス・キリストの福音の6つの主要な真理は次のとおりです:

(1)神は、私たちが神と共にいるように創造されました。
(2)
私たちの罪は、私たちを神から引き離します。
(3)
罪は善行によって取り除くことはできません。
(4)
罪の代価を支払って、イエスは死んでよみがえられました。
(5)
イエスは人々の罪のために死にました。自分の罪を悔い改め、イエスを信じる人は誰でも永遠のいのちを持っています。
(6)
イエスとの生活は今始まり、永遠に続きます。

 

聖日礼拝毎日曜日午前11:00から
みなさんぜひお越しください。

 

 

 

グッド・サマリタン・チャーチ 洲本チャペル 活動の軌跡 since1968~