ジム・スナイプ
(マルコ 10:28-30) ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、 その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」
さて、これからお話しするのは、イエス様に従ってきた私と妻との歩みの一部の「証し(あかし)」したものです。振り返ってみると、私達は、ペテロと同じような道を歩んできたように思えてなりません。 「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」とペテロがイエスに言った時、イエスは次のような約束をされました。「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、 その百倍を受けない者はありません。(マルコ10:30)今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」 そうです、私達は家を捨て、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てて日本にやってきました。しかし、イエスのこの言葉の通り、迫害の中にあっても、神様はこの地で兄弟や姉妹ばかりでなく、果物や野菜を育てられる十分な畑も与えて下さったのです。
このことも含めて、イエス様に従ってきた私達の歩みを紹介させて頂きたいと思います。
イエスに従っていくと心に決めたのは妻と私がクリスチャンになってまもなくでしたからでした。 しかし、その時はイエス様がどこに私達を導かれようとしているのか定かではありませんでした。私は1981年の4月12日にクリスチャンになりましたが、この時、人生を変えて下さるようにイエスに切に祈りました。この祈りは聞かれ、その後の私たちの人生は大きく変えられたのです。
1985年の夏、クリスチャン団体のFGMFI(カナダ純福音国際ビジネス協会)は日本への旅行についての計画を立てていました。ある日、男性を中心としたミーテイングの中で、「日本へ渡航するという神の召しを感じた人は前へ出て祈ってもらってください」とリーダーが言いました。私はちゅうちょなく進み出ました。家に帰ってから妻のダーラに日本に行くことになるかもしれないと伝えました。「私は?」という彼女の質問に、「よくわからない!」とそうしかありませんでした。しかしながら、1986年の4月、私と妻は25人のカナダ人とFGMFIの日本旅行の団体に加わり、成田空港から、新宿の京王プラザまでバスで行くことになったのです。そのホテルの窓から、夜遅くまでたくさんの人が働いているのをみて驚いたことを覚えています。又、なぜ私たちは日本にいるんだろうと不思議な気持ちに包まれたことが記憶に残っています。
次の朝、いつもより早く起きた私は、富士山を見る事が出来るかなと期待していましたか、イメージ通りの素晴らしい姿を見る事ができました。部屋の窓から東京の街並み見つめていましたが、背の高いビルが限られたエリアの中に点在しているのが印象的でした。 しかし、突然、この国の99%以上がクリスチャンではないことに気づかされました。 ほとんどの人が永遠の命に関して希望を持っていないのです。そのことが強く胸に迫り、涙をこらえる事ができずすすり泣いてしまいました。それはまさにイエスが私を通して日本人の為に泣いているようでした。 隣で妻も一緒に泣いていたのを覚えています。圧倒的な神の臨在がその部屋全体を包んでいたのです。
1週間後、リーダーが「このグループの中から2名が大阪に行くことになるだろう」と伝えにきました。妻には、それは私たちではないだろうとささやきました、自分達は東京に重荷を持っていると思っていたからです。しかし、リーダーはキャンベル夫妻と、スナイプ夫妻が行くことになるだろうと言ったのです。リーダーの言った通り、私たちは大阪を訪れ、第一ホテルに泊まることになりました。大阪では様々な教会を訪問しましたが、日本を離れる前に最後に訪れたのがグッド・サマリタンチャーチです。その後、カナダへ帰国する為に伊丹空港から成田空港へ飛び立とうとしていた時、見送りに来ていたこの教会の青木先生と由美子先生はぜひもう一度日本に来て下さいと言って下さいました。私達はその言葉通り再び日本を訪れました。日本に戻ったのは、カナダへ帰って9ヶ月後の1987年1月末でした。このとき、東京で過ごしていた私達に宣教師になるようにと神様は呼び掛けておられました。その時はクリスチャンになってまだ6年にもならない頃でした。しかし、私達はイエス様に従うと決めたのです。そして、宣教師となって日本で活動する為の計画を練るようになりました。
カナダに帰国後、宣教師として日本にいくつもりと息子達に伝えました。「僕は行かない!」長男のシェーンの言葉です。さて、日本への渡航までさらに2年半の準備期間が必要でした。また、持っていた土地と食用鳥ビジネスを手放す必要がありました。こうしてようやく、1989年の4月に旅行会社に7月の日本渡航の手続きを依頼するまでになりました。それでも、そのタイミングがベストであるかどうか一抹の不安がありました。しかし、旅行会社に日本への旅程を伝えた次の日、私が以前に買ったスースケースに必要なものを詰め込んで次男のジェイが私たちのへ部屋を訪れ、こういいました。「必要なものは全部詰め込んだよ。 お父さん、僕たちは日本へ行こうとしているんだよ。まだ迷っているの?」 このジェイの言葉が日本渡航の決意を確固たるものにしてくれたのです。日本へ発つ前にカナダの教会の最後の集会の事でした。私と妻はみんなの前で宣教師として日本にいくというあかしを行ったのです。 皆は私達の為に祈り、全員で次のような賛美を神にささげました。
I have decided to follow Jesus;(イエス様に従うと決めた。)
I have decided to follow Jesus;(イエス様に従うと決めた。)
I have decided to follow Jesus;(イエス様に従うと決めた。)
No turning back, no turning back.(もう戻らない、戻らない。)
Though I may wonder, I still will follow; (先のことはわからないけれど、それでも
ついていきます。)
Though I may wonder, I still will follow; 先のことはわからないけれど、それでも
ついていきます。)
Though I may wonder, I still will follow; 先のことはわからないけれど、それでも
ついていきます。)
No turning back, no turning back. (もう戻らない、戻らない。)
The world behind me, the cross before me; (世を後にして、十字架を前にして。)
The world behind me, the cross before me; (世を後にして、十字架を前にして。)
The world behind me, the cross before me; (世を後にして、十字架を前にして。)
No turning back, no turning back. (もう戻らない、戻らない。)
Though none go with me, still I will follow; (誰も一緒に行かないけれど、それでも従います。)
Though none go with me, still I will follow; (誰も一緒に行かないけれど、それでも従います。)
Though none go with me, still I will follow; (誰も一緒に行かないけれど、それでも従います。)
No turning back, no turning back. (もう戻らない、戻らない。)
Will you decide now to follow Jesus? (今、イエス様に従うと決めませんか?)
Will you decide now to follow Jesus? (今、イエス様に従うと決めませんか?)
Will you decide now to follow Jesus? (今、イエス様に従うと決めませんか?)
No turning back, no turning back. (もう戻らない、戻らない。)
これが私達の歩んできた道です。 イエス様が導くところへはどんなところへでも行くと決心したのです。もう後戻りすることはありません。日本へ来た時、どこで宣教師としての働きをすればいいかわかりませんでした。1989年7月31日に、妻と私そして息子のジェイは6個のスーツケースを携えて伊丹空港に降り立ちました。 その時20数名にわたるグッドサマリタンチャーチの皆さんの思いもかけない歓迎を受け本当に感激しました。最初にお見かけしたのが由美子先生のお母様でした。 私達はそれぞれ迎えの車に分乗させて頂き、この教会へと向かいました。
日本での最初の朝に、ロイヤルホテルで開かれていた教会成長の為の国際会議に青木先生が誘って下さいました。そこにはチョーヨンギ先生が集会を導いておられましたが、私は先生の本を数多く読んでいて、いつか先生の集会にぜひ参加したいと思っていました。彼は100名もの参加者に手をおいて祝福して下さいました。日本での最初の日に世界的に有名なチョー先生が私達にも手をおいて祝福して下さったのです。神様のタイミングは本当に完璧です!
グッドサマリタンチャーチは、私達の為に1ヶ月間の宿泊所を用意して下さることになりました。日本について3日目に青木先生はあるマンションを紹介して下さいました。日本で言うマンションは、カナダ人がイメージする豪華マンションとは少し違うよと説明してくださいました。 引っ越しが終わってまもなく、妻が洗濯機を使っていた時に、ドアをノックする音が聞こえました。でてみると、それは私達の真下に住んでいた人で、洗濯機から水があふれ階下にまで水が漏れていると伝えに来られたのでした。「すいません」というしかありませんでした。このように、なれないマンションでの生活は厳しいものがありました。そのビルには300家族が住んでいたのですがその広さは私達が所有していたカナダの農園と同じくらいの規模でした。さすがにFGMFIもカルチャーショックの対処方法まで用意はできなかったようです。
日本での生活が1カ月を過ぎようとするころ、グッドサマリタンチャーチから、当教会で宣教師として働かないかという申し出を受けました。長男のシェーンは私達の後を追って1ヵ月後に来日しましたが、結局私たち一家は1年余りをこのマンションで過ごすことになりました。翌年6月に私達はアメリカ、カナダへの帰国旅行を計画していました。幾人かの教会員は、もう日本には戻ってこないのではないかと思っていらっしゃったようですが、私達は戻ってきたのです。
1999年1月までの10年間は、グッドサマリタンチャーチで宣教師として仕えてきました。快適な日々でした。しかし、この時は、将来大きく土台が揺さぶられることなるとは夢にも思いませんでした。それは新年を迎え、妻が断食をしながらしきりに祈っていたときにおこりました。1月6日の水曜祈祷会で祈っていた時、「出エジプト記」で岩から水があふれ出すシーンを聖霊が妻に示されたのです。17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。その時砂漠に命の川が流れたのです。神にできないことは何もありません。この祈祷会の時に、聖霊は妻に淡路島の為に祈るという重荷を与えられました。 淡路島に行き、そこを占領しなさいと言われたのでした。13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
家に帰った後も、妻は興奮して眠れず一晩中祈り続けたようです。淡路島に関して多くのことを聖霊は妻に示されました。行ったことのない淡路島をくっきりと思い浮かべる事ができるほどになりました。淡路島の4つの拠点(東西南北)に行って祈り、この島はイエス様のものだと祈らなければならないという強い思いを持つようになりました。
2月の早い時期、私は日本牧師会議に参加する事になりました。このことによって、定期的に行っていたイスラエルツアーは中止せざるを得なくなりましたが、このツアーは神のタイミングではなかったからでしょう。神は自分達とは違った計画を持っておられたのです。その会議の時から神は私達に牧師になるとの思いを与えられはじめました。
2月11日に4つのチームは淡路島の人々の為に祈る為この島に渡りました。私達にとって淡路島はこれが最初でした。明石海峡の下の淡路島の北で、この島を宣教の為に勝ち取る為に祈ったのでした。このこともあって、神の計画をいつまでも先延ばしにするわけにはいかないと感じていました。そして、私達が淡路島でなすべきことは一体何だろうと思いを巡らせていました。
次の日の金曜日、いつものように早朝の祈祷会に参加しました。この時に聖霊が妻に淡路島の事について語りかけられました。彼女は祈祷会を離れて別の部屋に移りました。祈祷会が終わった後この部屋に帰ってきたとき彼女の眼は涙であふれていました。淡路島の人達がおぼれながら「こちらに渡って来て、助けてください」と叫んでいる幻(まぼろし)を見たのです。妻からこの幻の話を聞いた時、私も泣いてしまいました。この時、私達二人は淡路島に対して大きな重荷を背負ってしまったのです。昼食をとりながら青木先生ご夫妻とこの幻について話し合いましたが、でるだけ早い機会に淡路島に行ったほうがいいということになりました。 私達に対する神の召命は聖書の「使途の働き」の中で述べられているパウロが得た召命と似たものでした。(使徒の働き16:9) ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。(使徒の働き16:10) パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
神様があなたに何かしてほしいと言われた時、信仰によって歩み始めなければなりません。扉は自動的には開かないのです。2日後、家主に3月末までにこの家を退去すると伝えました。2月も終わろうとするころ、私達は淡路島に渡って住まいを探し始めました。最初に見つけた家は私達がクリスチャンだということで拒絶されました。この家主は、私たちが教会を始める事を恐れたのです。良い物件であっただけに私達は本当に失望しました。しかし、こんな事があってもなお、自分達の力で何とかしなければならないと考えていましたが、最終的には神に全てをゆだね、神がされるようにしようと考えを変えました。2月が過ぎてしまいましたが物件は見つかりませんでした。3月中には新しい場所に移ると人々には言い続けていましたが、いまだ住まいは見つかっていませんでした。 しかし、3月5日に、新しい物件のFAXが届きました。3月8日、妻は教会の英語教室があり一緒に行くことができませんでしたが、私は青木先生ご夫妻と一緒に洲本の物件を見に行きました。その家を見たとたん、私も青木先生達もこの家こそが、神様が用意して下さったものだと感じました。家主の母親が私達のところに来て、「教会を始めないんですか」と私達がお願いする前に尋ねられたのです。 なんと、彼女はクリスチャンだったのです。女性にとっては、まだ一度も見たことのない家に住もうという決心をすることは非常にむずかしい事だ思います。それは妻も同じだと思います。
帰ってから妻に、あなたが祈っていた2つのものが備えられている家が見つかったと報告しました。それは掘りごたつとシステムキッチンです! その時代には、家の中に掘りごたつがあるというのは本当に珍しいことでした。この事実を知って、妻はすぐにこの家に住むことを決めました。
住まいを見つけたその日に、私の父が亡くなり、イエス様が待っている天国に旅立ちました。 このあと、全ての条件が整い、ついに3月24日に私達は淡路島に移りました。
洲本チャペルの最初の礼拝は1999年の4月4日のイースターの日に行われました。 その日はちょうど神戸から淡路までのパール道路が開通した1年後の事でした。この橋により、洲本からグッドサマリタンチャーチまでの非常に便利になったのです。イエスに従って歩んで行ったときに、最善の時に最良の場所が与えられたのです。
私達が宣教師として日本にやってきた1989年以来、多くの年月が過ぎ去りました。さて、この間に、私達の息子達はどうなったでしょうか? 来日後、長男のシェーンは日本で英語を教え、アルバータの大学を卒業するまではゴルフキャデイのアルバイトをしていました。日本での最後の年に日本人女性のひろみと沖縄で出会い、1996年の11月にグッドサマリタンチャーチで結婚式を挙げました。二人にはジャスミン(娘)とブランドン(息子)の2人の子供が与えられました。彼は1996年以降、日系の会社に勤めていましたが、現在はシカゴにあるNIDEC(日本電産)で仕事をしています。
次男のジェイは神戸のカナデイアンアカデミーを卒業後、カナダのアルバータで大学生活を送ったあと、2年間日本で過ごしていました。彼も英語の先生とゴルフキャデイをしていましたが、カナダに帰ったあとバンフの土産物店でアルバイトをしていた時に、日本人女性の久美子と知り合ったのです。その時は、彼女も他のギフトショップで働いていました。彼らは1997年にグッドサマリタンチャーチで挙式しました。その時ジェイはアルベルタ州カルガリのDeVry工科大学の学生でした。彼はコンピューターサイエンスの学位を取った後、久美子と共にヒューストンに移り、現在はShell Trading Companyで働いています。
さて、私達のあかしの第二部では、淡路島でどのように教会を始め、プレスクールを始めるようになったかをお話させて頂きます。
(マルコ 10:28-30) ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、 その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」
さて、これからお話しするのは、イエス様に従ってきた私と妻との歩みの一部の「証し(あかし)」したものです。振り返ってみると、私達は、ペテロと同じような道を歩んできたように思えてなりません。 「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」とペテロがイエスに言った時、イエスは次のような約束をされました。「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、 その百倍を受けない者はありません。(マルコ10:30)今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」 そうです、私達は家を捨て、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てて日本にやってきました。しかし、イエスのこの言葉の通り、迫害の中にあっても、神様はこの地で兄弟や姉妹ばかりでなく、果物や野菜を育てられる十分な畑も与えて下さったのです。
このことも含めて、イエス様に従ってきた私達の歩みを紹介させて頂きたいと思います。
イエスに従っていくと心に決めたのは妻と私がクリスチャンになってまもなくでしたからでした。 しかし、その時はイエス様がどこに私達を導かれようとしているのか定かではありませんでした。私は1981年の4月12日にクリスチャンになりましたが、この時、人生を変えて下さるようにイエスに切に祈りました。この祈りは聞かれ、その後の私たちの人生は大きく変えられたのです。
1985年の夏、クリスチャン団体のFGMFI(カナダ純福音国際ビジネス協会)は日本への旅行についての計画を立てていました。ある日、男性を中心としたミーテイングの中で、「日本へ渡航するという神の召しを感じた人は前へ出て祈ってもらってください」とリーダーが言いました。私はちゅうちょなく進み出ました。家に帰ってから妻のダーラに日本に行くことになるかもしれないと伝えました。「私は?」という彼女の質問に、「よくわからない!」とそうしかありませんでした。しかしながら、1986年の4月、私と妻は25人のカナダ人とFGMFIの日本旅行の団体に加わり、成田空港から、新宿の京王プラザまでバスで行くことになったのです。そのホテルの窓から、夜遅くまでたくさんの人が働いているのをみて驚いたことを覚えています。又、なぜ私たちは日本にいるんだろうと不思議な気持ちに包まれたことが記憶に残っています。
次の朝、いつもより早く起きた私は、富士山を見る事が出来るかなと期待していましたか、イメージ通りの素晴らしい姿を見る事ができました。部屋の窓から東京の街並み見つめていましたが、背の高いビルが限られたエリアの中に点在しているのが印象的でした。 しかし、突然、この国の99%以上がクリスチャンではないことに気づかされました。 ほとんどの人が永遠の命に関して希望を持っていないのです。そのことが強く胸に迫り、涙をこらえる事ができずすすり泣いてしまいました。それはまさにイエスが私を通して日本人の為に泣いているようでした。 隣で妻も一緒に泣いていたのを覚えています。圧倒的な神の臨在がその部屋全体を包んでいたのです。
1週間後、リーダーが「このグループの中から2名が大阪に行くことになるだろう」と伝えにきました。妻には、それは私たちではないだろうとささやきました、自分達は東京に重荷を持っていると思っていたからです。しかし、リーダーはキャンベル夫妻と、スナイプ夫妻が行くことになるだろうと言ったのです。リーダーの言った通り、私たちは大阪を訪れ、第一ホテルに泊まることになりました。大阪では様々な教会を訪問しましたが、日本を離れる前に最後に訪れたのがグッド・サマリタンチャーチです。その後、カナダへ帰国する為に伊丹空港から成田空港へ飛び立とうとしていた時、見送りに来ていたこの教会の青木先生と由美子先生はぜひもう一度日本に来て下さいと言って下さいました。私達はその言葉通り再び日本を訪れました。日本に戻ったのは、カナダへ帰って9ヶ月後の1987年1月末でした。このとき、東京で過ごしていた私達に宣教師になるようにと神様は呼び掛けておられました。その時はクリスチャンになってまだ6年にもならない頃でした。しかし、私達はイエス様に従うと決めたのです。そして、宣教師となって日本で活動する為の計画を練るようになりました。
カナダに帰国後、宣教師として日本にいくつもりと息子達に伝えました。「僕は行かない!」長男のシェーンの言葉です。さて、日本への渡航までさらに2年半の準備期間が必要でした。また、持っていた土地と食用鳥ビジネスを手放す必要がありました。こうしてようやく、1989年の4月に旅行会社に7月の日本渡航の手続きを依頼するまでになりました。それでも、そのタイミングがベストであるかどうか一抹の不安がありました。しかし、旅行会社に日本への旅程を伝えた次の日、私が以前に買ったスースケースに必要なものを詰め込んで次男のジェイが私たちのへ部屋を訪れ、こういいました。「必要なものは全部詰め込んだよ。 お父さん、僕たちは日本へ行こうとしているんだよ。まだ迷っているの?」 このジェイの言葉が日本渡航の決意を確固たるものにしてくれたのです。日本へ発つ前にカナダの教会の最後の集会の事でした。私と妻はみんなの前で宣教師として日本にいくというあかしを行ったのです。 皆は私達の為に祈り、全員で次のような賛美を神にささげました。
I have decided to follow Jesus;(イエス様に従うと決めた。)
I have decided to follow Jesus;(イエス様に従うと決めた。)
I have decided to follow Jesus;(イエス様に従うと決めた。)
No turning back, no turning back.(もう戻らない、戻らない。)
Though I may wonder, I still will follow; (先のことはわからないけれど、それでも
ついていきます。)
Though I may wonder, I still will follow; 先のことはわからないけれど、それでも
ついていきます。)
Though I may wonder, I still will follow; 先のことはわからないけれど、それでも
ついていきます。)
No turning back, no turning back. (もう戻らない、戻らない。)
The world behind me, the cross before me; (世を後にして、十字架を前にして。)
The world behind me, the cross before me; (世を後にして、十字架を前にして。)
The world behind me, the cross before me; (世を後にして、十字架を前にして。)
No turning back, no turning back. (もう戻らない、戻らない。)
Though none go with me, still I will follow; (誰も一緒に行かないけれど、それでも従います。)
Though none go with me, still I will follow; (誰も一緒に行かないけれど、それでも従います。)
Though none go with me, still I will follow; (誰も一緒に行かないけれど、それでも従います。)
No turning back, no turning back. (もう戻らない、戻らない。)
Will you decide now to follow Jesus? (今、イエス様に従うと決めませんか?)
Will you decide now to follow Jesus? (今、イエス様に従うと決めませんか?)
Will you decide now to follow Jesus? (今、イエス様に従うと決めませんか?)
No turning back, no turning back. (もう戻らない、戻らない。)
これが私達の歩んできた道です。 イエス様が導くところへはどんなところへでも行くと決心したのです。もう後戻りすることはありません。日本へ来た時、どこで宣教師としての働きをすればいいかわかりませんでした。1989年7月31日に、妻と私そして息子のジェイは6個のスーツケースを携えて伊丹空港に降り立ちました。 その時20数名にわたるグッドサマリタンチャーチの皆さんの思いもかけない歓迎を受け本当に感激しました。最初にお見かけしたのが由美子先生のお母様でした。 私達はそれぞれ迎えの車に分乗させて頂き、この教会へと向かいました。
日本での最初の朝に、ロイヤルホテルで開かれていた教会成長の為の国際会議に青木先生が誘って下さいました。そこにはチョーヨンギ先生が集会を導いておられましたが、私は先生の本を数多く読んでいて、いつか先生の集会にぜひ参加したいと思っていました。彼は100名もの参加者に手をおいて祝福して下さいました。日本での最初の日に世界的に有名なチョー先生が私達にも手をおいて祝福して下さったのです。神様のタイミングは本当に完璧です!
グッドサマリタンチャーチは、私達の為に1ヶ月間の宿泊所を用意して下さることになりました。日本について3日目に青木先生はあるマンションを紹介して下さいました。日本で言うマンションは、カナダ人がイメージする豪華マンションとは少し違うよと説明してくださいました。 引っ越しが終わってまもなく、妻が洗濯機を使っていた時に、ドアをノックする音が聞こえました。でてみると、それは私達の真下に住んでいた人で、洗濯機から水があふれ階下にまで水が漏れていると伝えに来られたのでした。「すいません」というしかありませんでした。このように、なれないマンションでの生活は厳しいものがありました。そのビルには300家族が住んでいたのですがその広さは私達が所有していたカナダの農園と同じくらいの規模でした。さすがにFGMFIもカルチャーショックの対処方法まで用意はできなかったようです。
日本での生活が1カ月を過ぎようとするころ、グッドサマリタンチャーチから、当教会で宣教師として働かないかという申し出を受けました。長男のシェーンは私達の後を追って1ヵ月後に来日しましたが、結局私たち一家は1年余りをこのマンションで過ごすことになりました。翌年6月に私達はアメリカ、カナダへの帰国旅行を計画していました。幾人かの教会員は、もう日本には戻ってこないのではないかと思っていらっしゃったようですが、私達は戻ってきたのです。
1999年1月までの10年間は、グッドサマリタンチャーチで宣教師として仕えてきました。快適な日々でした。しかし、この時は、将来大きく土台が揺さぶられることなるとは夢にも思いませんでした。それは新年を迎え、妻が断食をしながらしきりに祈っていたときにおこりました。1月6日の水曜祈祷会で祈っていた時、「出エジプト記」で岩から水があふれ出すシーンを聖霊が妻に示されたのです。17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。その時砂漠に命の川が流れたのです。神にできないことは何もありません。この祈祷会の時に、聖霊は妻に淡路島の為に祈るという重荷を与えられました。 淡路島に行き、そこを占領しなさいと言われたのでした。13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
家に帰った後も、妻は興奮して眠れず一晩中祈り続けたようです。淡路島に関して多くのことを聖霊は妻に示されました。行ったことのない淡路島をくっきりと思い浮かべる事ができるほどになりました。淡路島の4つの拠点(東西南北)に行って祈り、この島はイエス様のものだと祈らなければならないという強い思いを持つようになりました。
2月の早い時期、私は日本牧師会議に参加する事になりました。このことによって、定期的に行っていたイスラエルツアーは中止せざるを得なくなりましたが、このツアーは神のタイミングではなかったからでしょう。神は自分達とは違った計画を持っておられたのです。その会議の時から神は私達に牧師になるとの思いを与えられはじめました。
2月11日に4つのチームは淡路島の人々の為に祈る為この島に渡りました。私達にとって淡路島はこれが最初でした。明石海峡の下の淡路島の北で、この島を宣教の為に勝ち取る為に祈ったのでした。このこともあって、神の計画をいつまでも先延ばしにするわけにはいかないと感じていました。そして、私達が淡路島でなすべきことは一体何だろうと思いを巡らせていました。
次の日の金曜日、いつものように早朝の祈祷会に参加しました。この時に聖霊が妻に淡路島の事について語りかけられました。彼女は祈祷会を離れて別の部屋に移りました。祈祷会が終わった後この部屋に帰ってきたとき彼女の眼は涙であふれていました。淡路島の人達がおぼれながら「こちらに渡って来て、助けてください」と叫んでいる幻(まぼろし)を見たのです。妻からこの幻の話を聞いた時、私も泣いてしまいました。この時、私達二人は淡路島に対して大きな重荷を背負ってしまったのです。昼食をとりながら青木先生ご夫妻とこの幻について話し合いましたが、でるだけ早い機会に淡路島に行ったほうがいいということになりました。 私達に対する神の召命は聖書の「使途の働き」の中で述べられているパウロが得た召命と似たものでした。(使徒の働き16:9) ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。(使徒の働き16:10) パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
神様があなたに何かしてほしいと言われた時、信仰によって歩み始めなければなりません。扉は自動的には開かないのです。2日後、家主に3月末までにこの家を退去すると伝えました。2月も終わろうとするころ、私達は淡路島に渡って住まいを探し始めました。最初に見つけた家は私達がクリスチャンだということで拒絶されました。この家主は、私たちが教会を始める事を恐れたのです。良い物件であっただけに私達は本当に失望しました。しかし、こんな事があってもなお、自分達の力で何とかしなければならないと考えていましたが、最終的には神に全てをゆだね、神がされるようにしようと考えを変えました。2月が過ぎてしまいましたが物件は見つかりませんでした。3月中には新しい場所に移ると人々には言い続けていましたが、いまだ住まいは見つかっていませんでした。 しかし、3月5日に、新しい物件のFAXが届きました。3月8日、妻は教会の英語教室があり一緒に行くことができませんでしたが、私は青木先生ご夫妻と一緒に洲本の物件を見に行きました。その家を見たとたん、私も青木先生達もこの家こそが、神様が用意して下さったものだと感じました。家主の母親が私達のところに来て、「教会を始めないんですか」と私達がお願いする前に尋ねられたのです。 なんと、彼女はクリスチャンだったのです。女性にとっては、まだ一度も見たことのない家に住もうという決心をすることは非常にむずかしい事だ思います。それは妻も同じだと思います。
帰ってから妻に、あなたが祈っていた2つのものが備えられている家が見つかったと報告しました。それは掘りごたつとシステムキッチンです! その時代には、家の中に掘りごたつがあるというのは本当に珍しいことでした。この事実を知って、妻はすぐにこの家に住むことを決めました。
住まいを見つけたその日に、私の父が亡くなり、イエス様が待っている天国に旅立ちました。 このあと、全ての条件が整い、ついに3月24日に私達は淡路島に移りました。
洲本チャペルの最初の礼拝は1999年の4月4日のイースターの日に行われました。 その日はちょうど神戸から淡路までのパール道路が開通した1年後の事でした。この橋により、洲本からグッドサマリタンチャーチまでの非常に便利になったのです。イエスに従って歩んで行ったときに、最善の時に最良の場所が与えられたのです。
私達が宣教師として日本にやってきた1989年以来、多くの年月が過ぎ去りました。さて、この間に、私達の息子達はどうなったでしょうか? 来日後、長男のシェーンは日本で英語を教え、アルバータの大学を卒業するまではゴルフキャデイのアルバイトをしていました。日本での最後の年に日本人女性のひろみと沖縄で出会い、1996年の11月にグッドサマリタンチャーチで結婚式を挙げました。二人にはジャスミン(娘)とブランドン(息子)の2人の子供が与えられました。彼は1996年以降、日系の会社に勤めていましたが、現在はシカゴにあるNIDEC(日本電産)で仕事をしています。
次男のジェイは神戸のカナデイアンアカデミーを卒業後、カナダのアルバータで大学生活を送ったあと、2年間日本で過ごしていました。彼も英語の先生とゴルフキャデイをしていましたが、カナダに帰ったあとバンフの土産物店でアルバイトをしていた時に、日本人女性の久美子と知り合ったのです。その時は、彼女も他のギフトショップで働いていました。彼らは1997年にグッドサマリタンチャーチで挙式しました。その時ジェイはアルベルタ州カルガリのDeVry工科大学の学生でした。彼はコンピューターサイエンスの学位を取った後、久美子と共にヒューストンに移り、現在はShell Trading Companyで働いています。
さて、私達のあかしの第二部では、淡路島でどのように教会を始め、プレスクールを始めるようになったかをお話させて頂きます。