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単立プロテスタント教会グッド・サマリタン・チャーチ

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〒656-0046 兵庫県洲本市金屋1268-1

私たちについてAbout us

なぜ、日本へ?・・・私たちの証

ジム&ダーラ

 カリフォルニア州の北部で生まれた私は、子供のころ、父と田んぼを歩きまわったことを覚えています。父はキジやカモの狩猟が好きでした。まもなく私も狩猟や魚釣りに時間をかけるようになっていきましたが、そのころの活動が私の後の人生に大きな影響を与えるようになりました。 高校を卒業すると、本格的に農業を職業とするために、カリフォルニアを離れてアイダホ大学に入学しました。教会には子供の頃からよく行き、高校生時代もたまには行っていましたので、大学生になっても、どこか教会を見つけて出席しようと思いました。こうしてまもなく洗礼を受け、一見宗教的な生活を始めました。
 しかし私の人生にはなんの変化も起こらず、日曜日も教会の礼拝に行くことを除けば、他の曜日と同じことでした。 大学4年の時、ダーラと出会い、翌年の夏に結婚しました。その後、カナダのアルバータ大学の大学院に行くことになり、私たちはカナダに移住しました。子供の頃からの願いである、狩猟をしたり、魚釣りに行ったり、農業に従事したりすることが、広大なアルバータで実現すると期待していました。 一年後、私達はアルバータ州南部のマグラスという小さな農業の町に住むようになりました。その頃私は「アルバータ南部における狩猟と漁業の経済活動」という修士論文を仕上げていました。 長男が生まれた頃、地元のコインランドリーで洗濯をしていた時、たまたま3人の人に出会いました。この人たちは私に話しかけ、「イエス様を知っていますか」と質問しました。そんな質問は教会でもされたことがなく、私はどう答えたらよいか分からなかったので、家内に会って聞いてくれと言ってしまいました。この人たちは家へ来て、ダーラに会い、イエス様のことを話し始めました。彼らが帰る時、ダーラの目には涙があふれていました。イエス様の御名を聞いただけで涙が出てきたのです。彼女はその時聞いたことに深く感動したのですが、私が反対することを恐れて教会に行くようにはなりませんでした。実は、結婚後、私たちは教会に行かなくなっていたのです。私がイエス様のことを知るようになるのは、それから10年後のことだったのです。
 私たちはアルバータ中部に農場を買って引っ越し、キジの飼育を始め、狩猟クラブを経営するようになりました。事業は結婚生活よりもずっとうまくいきました。家内は何とかして私を変えようと努力しましたが、結果は夫を狩猟と魚釣りに取られた未亡人のようになってしまいました。私は家内にも、二人の息子にも、夫として、父としての愛を与えることを知りませんでした。私は周りの人の感情に無関心で、自分の行動が人を傷つけているとは気がつきませんでした。私は友人たちのしていることや、彼らの事業の成功のことばかり気になっていました。それで、私が狩猟仲間とお酒を飲んでいるときに、家内はよく一人で鳥の加工をしなければなりませんでした。 助けは意外な所からやってきました。1975年の7月に私たちはカナダの市民権を得ましたがその時、カナダ聖書協会が記念に新約聖書を贈ってくれたのです。もうすでに聖書は何冊ももっていましたが、もう一冊あっても構わないと思いました。私の祖母は家族のみんなに聖書を贈ってくれていたのですが、私は手に取ったことはありませんでした。当時、聖書が私達の人生に、喜びと希望をもたらすものだとは夢にも思っていなかったのです。私の家内は、家庭に助けが必要であることを痛感しており、この聖書が答えかもしれないと思い始めていました。 家内は聖書を読み進めていくうち、イエス様が自分の罪のために十字架に死んでくださったことを知り、イエス・キリストを主と信じるようになり、イエス様を自分の救い主として受け入れ、クリスチャンになりました。
 まもなく、主が彼女の内に変化を起こしてくさり、周りの人の目にも、彼女が変ってきたことが分かるようになりました。夫の私にも、この「宗教」は、彼女にとって良いものであるとわかるようになりましたが、それが私自身にも必要であるとは思いませんでした。家内は聖書のみことばによって励ましを受けるようになり、私たちの結婚生活にも希望を持つようになりました。特にペテロの第一の手紙の三章の、「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」というみことばに励まされたのでした。 家内と二人の息子は教会に行くようになりました。ところが、家内の視力が急に落ちて、車の運転ができなくなってしまいました。こうして私も彼らを送って教会へ行かざるを得なくなり、神の恵みに与るようになったのです。家中にキリスト教関係の本があふれるようになり、私の心にあった疑問の答えが与えられるようになりました。
 イエス・キリストの復活が私にとって現実のこととして信じられるようになり、これが私の回心のカギとなりました。 1981年のシュロの日曜日、私は家内とともに聖餐式に与るために、講壇の前に出て行きました。家内は予期していなかったので大変驚きました。講壇の前にひざまずいて私は自分の罪を告白し、赦しを求め、私を変えてくださいと祈りました。家内は私が信じる者になるように祈り続けており、私もそれを知っていたのですが、プライドが邪魔して、十日ほどは、私に起こったことを秘密にしておきました。しかし遂に、信じるようになったことを彼女に告白しました。彼女の喜びはどれほどだったことでしょう。それからの数週間は、新婚時代よりも甘い日々となりました。神様は私に家内と、息子達に対する新しい愛を与えてくださったのです。私がクリスチャンになったことで、家庭は大きく変りました。数か月のうちに、息子たちは二人ともクリスチャンになり、家内の人生は喜びの人生になりました。しかし、神様の恵みはそれだけではありませんでした。家内には飲酒の習慣があったのですが、ある聖会でその問題のために祈ってもらったことがありました。その時、彼女は聖霊のバプテスマを受け、学んだことのない言葉で話し始めたのです。彼女は興奮して帰ってきました。私は聖霊のバプテスマがあることさえ知りませんでした。ただ、一体、次は何が家内に起こるのだろうと考えていただけでしたが、すぐに答えが与えられました。彼女はアルコールに勝利できたのです。それからは、飲みたいという気持ちさえ取り去っていただいたのです。恥ずかしがりやで引っ込み思案だったのが、自信にあふれ大胆になってきました。私も子供たちも励ましを受け、まもなく皆、聖霊のバプテスマを受けることができました。
 その後、友人から「ヴォイス」というフルゴスペル実業家親交会の雑誌を頂き、私たちの地域の支部の夕食会に初めて出席しました。イエス様によって今でも多くの人たちが変えられている証を聞いて心が燃えました。二、三ヶ月後、別の夕食会で、家内の目が癒されました。翌日から再び運転ができるようになりました。この奇跡によって、私たち家族の、神に対する信仰は大いに強められました。 私がクリスチャンになって数ヶ月後、私達はレイクランド・ポールトリー・プロセッサーという鶏肉加工工場を始めました。それからの半年間に、何度かひどい経済危機にみまわれました。1982年の2月の始めごろ、私は銀行の支店長と交渉した後、どうにもならない思いに沈んでいました。状況はこれ以上ないほど悪くなっていました。家内は事業のために祈ろうと言ってくれたのですが、クリスチャンになったばかりの私には、事業のために祈るなど考えられもしませんでした。その晩、私たちは主の前に心を注ぎ出して祈り、神の国とその義を第一として生きる決心をし、イエス様に事業の主人になっていただこうと祈りました。私は毎日聖書を読み、祈ることを心に決めました。翌朝、思いがけない経済的な助けが与えられました。私は、祈りがこんなに早く答えられるとは、なかなか信じることができませんでした。実は、その月の終わりまでに、急に政府の許可が与えられることになったのです。私達は、少なくとも半年くらいはかかると考えていたことでした。その他の、数多くの不利な条件が、ことごとく私達に有利になって働き、私達はまもなく利益を上げられるようになったのです。
 毎日聖書を読み、祈るという決心は、神に近づくための良い方法であることがわかりました。こうして私達は聖書の原則を事業にあてはめるようになりました。神を第一とするとき、不正な活動に対する誘惑に対して、はっきりノーと言えるようになりました。私達の会社は益々繁栄するようになり、やがてケンタッキーフライドチキンの6つの店舗を含む、多くの店に鶏肉を卸すようになりました。
 1986年の4月、私と家内はフルゴスペル実業家親交会の日本伝道旅行に初めて参加しました。神様が私達に日本へ行くように望んでおられるのは確かでしたが、その理由はわかりませんでした。東京に着いた日の朝、私は早く起きて、ホテルの窓から富士山の方を眺めていました。目の下に東京を見下ろしている時、日本の、実に、99%の人がイエス様を知らず、滅びに向かっている現実に気が付いて、我知らず、涙を流していました。気が付くと、家内も泣いていました。ホテルのその部屋には神の臨在が感じられ、イエス様が私を通して泣いておられるかのようでした。ルカの福音書19章の、イエス様がエルサレムを前にして涙を流して泣かれた場面が心に浮かんできました。 二度目の来日は、1987年の1月でした。最初の時と同じホテルの同じ部屋で祈り会をもっているとき、神様は私を宣教師として召して下さったのです。神様が私に語りかけられたのは確かでした。私は、必ず日本に住むようになると確信しました。神様の召しに答えないことなど考えられませんでした。しかし、その意味する所を知ると、泣かずにはいられませんでした。家族も友人も仕事も手放すことになると思いました。カナダでの生活も20年になり、快適に暮らせるようになっていました。大きな農場に、自分で建てた立派な家がありました。ところが驚いたことに、同じ時に、家内も日本へ宣教師として行きなさいと神様は語っておられたのです。家内も泣いていました。
 後で分かったことですが、その1日前に、別の人にも、神が私達を日本へ遣わそうとしておられることを示しておられたのでした。 カナダに帰ってから、私たちは日本語を学び始め、日本行きの準備をし始めました。その18ヶ月後、神は鶏肉の加工工場を売るように私に示されました。同じ週末に、神様は家内にも事業を売りなさいと語られました。家内は私が自分の方から事業を売ろうと言い出すようにして下さいと、祈ったそうです。2日後に私は家内に、神様が事業を売るように望んでおられると告げたのでした。しかしこのことを誰にも話しませんでした。その1週間後、神様は、私たちが事業を売ることを望んでおられると、あるクリスチャンの友人にも、示しておられたことを知りました。私たちは事業を手放す決心をしました。 私の両親は、神様が私たちを宣教師として日本へ送ろうとされていることを信じることができず、日本に行くことに激しく反対しました。それでも私たちは、スーツケース6個と、下の息子を連れて1989年7月30日にカナダを出て、大阪に出発しました。宣教師として働く所がどこかはまったくわかりませんでしたが、大阪の近くだと信じていました。
 空港に着いてみると、グッド・サマリタン・チャーチから何と20名以上の人びとが出迎えに来てくれていました。最初に日本に来たとき最後に訪れたのがこの教会でした。日本に来る前に、その教会の青木牧師が、宣教師のビザの取得を手伝ってくださり、一時的に落ち着く場所とを用意してくれていました。ところが、その年の9月からこのグッド・サマリタン・チャーチで宣教師として働き始めたのです。神様の日本への召命を頂いた後にも、この教会で宣教師として働くとは夢にも考えていなかったのでした。 宣教師として8年目に、私たち家族は二つの結婚式をどちらもグッド・サマリタン・チャーチで挙げることができました。長男は11月に、次男は翌年の6月に同じ三重県の日本人女性と結婚したのです。今、彼らはアメリカに住んでいます。 私たちが日本に来て、10年になりますが、神様は私たちを淡路島に導かれ、淡路島のグッド・サマリタン・チャーチ、洲本チャペルを始めるために、召されました。日本で牧会するようになるとは思いもしませんでしたが、私たちはいつも神様の素晴らしい働きに感謝し、喜んでいます。


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洲本チャペル/真愛インターナショナル・プレスクール

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